2008年12月11日

超久しぶりに

ブログを復活させようと思います。
ただいま準備中。  
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2006年03月10日

受話器はどちらの耳に当てるべきか

yahooニュース(3月9日(木)9時24分)
携帯電話をどちらの手で、どちらの耳で使う?〜携帯電話の習慣を調査

多くのユーザーが、 携帯電話で生活が変わった と感じているように、携帯電話は生活に深く入り込んでいるアイテムだ。しかし、非常にプライベートなアイテムということもあり、携帯電話の使い方が自分と他人で異なっているのかどうかは、なかなかわからないものだ。そんな携帯電話に関する習慣を、とても素朴な観点から調査した。
(中略)
「通話をする際に、どちらの耳に携帯電話をあてますか」という質問では、答えはほぼ真っ二つに分かれた。90%(270人)のユーザーがどちらの耳にあてるのか決まっており、全体の45%(135人)が「利き手側」、同じく45%(135人)が「利き手と反対側」の耳に携帯電話を当てるという結果となった。

ビジネスマン・OL であれば、利き手と反対側の耳を使う理由はわかるはずだ。オフィスでは、通話しながらメモを取るのは当たり前。利き手にはペンを握り、反対側の手で受話器を持つという習慣がある。このようなオフィスの習慣が、携帯電話を使う際にも現れているようだ。


脳の言語中枢が脳の右よりに存在するだかの理由で、音声信号である言葉が、言語中枢に届くまでの時間に差が出るため、受話器を左の耳に当てると、右耳に当てるより言葉を理解するまでに脳内に微細なロスが出るそうです。
なので、受話器は右耳に当てるほうが脳内の処理の効率が良いと。
まあ、こういう話の常として、またその内に反証みたいなのが出るかもしれませんが。

この記事は「受話器は右耳に当てても左耳に当てても同じ」という前提に暗黙のうちに因っていますが、このように、本当はそうじゃないかもしれない。

「自分の思い込み」というのは、たとえ、その「思い込み」が「世間の常識」と一致するものであっても、その真偽はかくも脆いものです。

自分の考えの全てを疑ってしまったら、一言も喋ることができずにノイローゼになってしまうけれども。

しかし、やはり、こういうようなことに触れると、自分が広い世界に生きたいと思うのなら、どんな受け入れ難いことでもまずは拒否ではなく受容を、自分が嫌いと思うものにこそ興味を、自分が正しいと思うことに対する痛烈な反論こそを喜ぶ心を、常に持つよう心がけるべきだと感じます。

ちなみに、個人的には受話器は左耳に当てたほうが、よく考えられる気がするので左に当てます。右耳で話してると、なんか脊髄反射的な返事をしてしまってる感じがして…ただのプラシーボ効果かもしれないけど。
  
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2005年12月26日

もう終わったクリスマスによせて。矢沢あい「NANA」の話も。

「金子みすず」という詩人がいまして、昔読んだ、その人の「大漁」という詩が印象に残っていて今も覚えています。また例によって何処で読んだのか忘れたのだけど。

大漁

朝焼け小焼だ
大漁だ
大羽艦の
大漁だ。

浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰮のとむらい
するだろう


一般的にはどういう風に評価されてるのかはわかりませんが、初めて読んだ時に、この詩の視点の置き所に「げっ」という感じになりました。
この詩から、「心優しさ」のようなものを感じるのがもしかしたら正統なのかもしれないけれど、自分は、世の中の理不尽さを冷徹に眺める「醒めきった視線」を感じてしまったからです。

たくさんの喜びの裏で同時に存在する、全く気にも留められない、この上ない悲しみ。
人々の日々の生活が続いていくためには、それはどうしようないことであるのに、それをわざわざ暴露することに、多少の趣味の悪さすら感じるのだけど、なんでこんな詩を引用したかというと、自分も、これから同じような趣味の悪いことを書こうとしているからです。


今日はクリスマスでしたが、日本では毎年クリスマスイブは「恋人達のイベント」となっている風潮があります。
もちろんクリスマスと関係なく過ごす人も大勢いますが、やはり、世間全体で一ヶ月前ぐらいから徐々にクリスマス気分を盛り上げる雰囲気があり、24日にクライマックスを迎えています。そして、その流れに乗って世間の恋人達がお互いの気持ちを高めあう…というのは、別段悪いことでもないと思います。
「日本人はクリスマスを勘違いしてる」だの「聖夜じゃなくて性夜だ」だのの批判はいつも聞こえますが、日本人の外来文化の曲解は現代に始まったことではありませんし、みんなが「楽しもう」という雰囲気をつくろうとする行為の一体どこが悪いのかと。


しかし、ここで話を一気に趣味の悪い方向に持っていくと、
ごく個人的な話でいえば、自分にとって「クリスマス」というのは、ここ10年近くのほとんどが、
「自分が好きな人が、自分のことを全く好きではないことを、否応なしに確認させられる日」
であり続けました。
ほぼ毎年、世間の浮かれ具合と、自分の苦い気持ちの落差を味わってきた、ろくでもない日であり続けたわけです。だから、屈託なく「クリスマス大好き」と言える人を素直にうらやましく思います。

しかし、僕が「クリスマスに浮かれるのなんか糞食らえ」という方向に行かないのは、社会において、被る必要なんかなかったかもしれない不利益を理不尽に被ることなんか、いくらでも普遍的に存在していると思っているからだと思います。
競争で勝った喜びの裏には負けた苦痛が、突然の幸運の裏には理不尽な残酷さが、多くの場合存在しています。しかし、これはどうしようもないことです。

問題なのは、今の社会はその理不尽さを受け入れるための方法論を持っていないことです。そして、その方法論を持っていないがために、苦しんでいる現代人は意外に多いのではないかと(実は自分もその一人だったりするから、ここでぶつくさ「俺は辛いんだよ」という文章を書いているのだと思いますが)。
自己実現という考え方すらなかった昔であれば、「そういうもんなんだよ」「仕方ないんだよ」というような言葉で、個人の力を超えた部分の、種々の理不尽さを受け入れてきたのですが。


大ヒットした「NANA」を今さら初めて読んで思ったのが、「『(恋愛に関することばっかりだけど)理不尽さを受け入れなくてはいけない苦しみ』を丁寧に描こうとしているな」ということです。ただの惚れた腫れただけのありがちな少女マンガかと、正直最初は思っていたのだけど。このマンガが大ヒットしたということは、やはり理不尽さを受け入れる方法論が今の社会に渇望されているんじゃないか、とか思ったり…深読みかな。

NANA (1)
  
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2005年10月26日

「人間力」ってそもそもなんですか。

<眞鍋かをり>ニート、引きこもりにエール

 「若者の人間力を高めるための国民運動」のイベントが26日、東京都千代田区の東京国際フォーラムであり、タレント・眞鍋かをりさんと五輪柔道三連覇の野村忠宏さんが若者にエールを送り、歌手の川嶋あいさんが応援ミニライブを開いた。
 ニートや引きこもりなど問題が増えている若者を支援しようと、経済界や労働界などでつくる「同国民会議」(議長、奥田碩・経団連会長)が主催。眞鍋さんは「若者サポーター」として、参加した約300人の若者らに「社会に出て大人として働くためには、能力よりも先に人間力が必要。若者のみなさんは、自信を持って、人間力を高めて、生き生きとした生活を送って」と呼びかけた。また、野村さんは「目標を持って自分を奮い立たせてください」と訴えた。
 その後、若者と識者らのトークセッションがあり、川嶋あいさんが熱唱し、「夢を一つは持って、火の中に飛び込む意気込みでがんばって」と激励した。
(毎日新聞)


「若者の人間力を高めるための国民運動」公式サイト
http://www.wakamononingenryoku.jp/


で、「人間力」ってなに?公式サイト見ても結局定義付けされてないので、何を高めようとしてるんだかよくわからない。さらに、この論調だと「ニートになる人は人間力が低い」ってことですか?
つまり、「人間力」って言葉の響きからすると、「ニートは人間として総合的にダメ」って言ってるような。バカにしてるんですかね。ニートをただの「究極の怠け者」扱いしている雰囲気ががうっすら感じられます。しかし、いうまでもないことですがニートの人達は「働けない自分」に(漠然とではあっても)悩んでいます。

そもそも「非常に真面目な性格な人ほどニートになりやすい」というのはよく言われていることです。なぜなら、真面目な人ほど「社会において自己実現されてない自分」というものに深刻に悩んでしまうからです。

しかし、社会生活の中で自己実現をすることはとても難しい。あちこちで利害がぶつかり合うし、みな自分の生活を守ろうと必死だからです。

その一方で、上の運動の通り「目標を持て」とか「夢を持って」とかのメッセージに代表されるように、「自己実現」というのは、現在の教育・風潮の中では至上命題です。だからこそ、真面目な人ほど、「自己実現」を自分の人生の最終目標に置きます。

しかし、繰り返しますが、社会の中で自己実現をすることは難しい(、そしてその厳しさを学校、社会は教えてくれません)。その強烈な、「理想」と「現実」の齟齬が今ニートを呼ばれる人たちを苦しめているのです。

そんな人たちに「目標を持て」「夢を持て」というのは、さらに首を絞め上げるようなものです。この運動は、そこのところを何もわかっていない。

夢や目標がなくても、毎日を力強く生きている社会人はたくさんいる。いわゆる「自分らしさ」をねじ曲げてでも、必死に働いて自分の家族を食わしている人だって、充分偉いはずです。


つまり、「自己実現なんてしなくてもOK」、こっちの価値観こそ今ニート(であり、自分がニートであることに悩んでいる人)達に必要なメッセージではないでしょうか。夢や目標なんかよりも先に、まず毎日を生きろ、と。「自己実現」というイデオロギーが手詰まりだからこそ、「ニート化」という現象が起きるわけです。

まあ、結局は、「夢や目標を持て」と言っておきながら、夢や目標が実現されることを信じづらい社会しか、今の若者に用意していない今の日本(政府)に腹が立っているというだけですが。  
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2005年10月19日

FOMA SO902i

きたああああああああああああああ!買うぞー。

http://www.nttdocomo.co.jp/product/foma/902i/so902i/index.html  
Posted by tobira0513 at 16:08Comments(0)TrackBack(0)モノ

2005年09月21日

現代の若者は、なぜ頻繁に周囲に対して感謝の気持ちを表明するか。

最近の日本の音楽の歌詞とか、mixiとかで色々な人が書いてる日記を読んでて思うのが、
「特になにかあったわけでもないのに、なんでいつものように『友達って最高』『友達に感謝』『今の自分を支えてくれる周囲の状況に感謝』『自分ってたぶん幸せ』っていう意思を表明しているのか」
ということ。別に、そういうことを書くことを否定しているわけではないですよ。

まあこういう歌詞とか文章とか見ても、「みんな素直なんだなー。俺ならこういうこと言うの照れちゃうのになー」とか漠然と思っていただけなんだけども、ある映画を見てふと思い当たりました。

前回のエントリーにもつながることだけども、こういうのって、要するにやっぱり「現代には期待できる未来がない」からではないかと。

まだ公開する前の、日本の昭和三十年代を舞台にした映画を見る映画に恵まれたのだけど、そこに描写されている人々は、例外なく未来に大きな期待を抱いていました。

子供達は皆、ロボットが街を行きかい、流線型の超高速列車が走る、科学が強烈に発達した「未来」を描いた小説に心をうばわれていたし、小さい自動車修理工場を営む親父は、日本の自動車産業が大きく発達していく将来に期待していました。
こういう姿は、なにも映画の中に限らず、昭和三十年代の実際の日本の姿に近いのだと思ます。

しかし、現代の日本では、将来に対するこういう明るい観測は皆無です。予想されている日本の将来は、700兆の借金が破綻するか、今の人口が半分くらいになった上に若者がいない老人だらけの社会ができるか、防御不可能なテロリストが突発的に襲ってくるか、カタストロフィックな大地震が襲ってくるか。

明るい未来を信じられるか、暗い未来しか想像できないか、というのが個人のメンタリティに及ぼす影響は、意識はしていなくても意外に大きいはずです。「震災時帰宅支援マップ」がベストセラーになってしまう社会は、やはりどこかまともではない。

そういう社会状況のなかで、若い人達が生み出した行為が、「(今自分を囲んでくれている)友達って最高」「友達に感謝」「今の自分を支えてくれる周囲の状況に感謝」「(今の)自分ってたぶん幸せ」っていう意思を、事あるごとに表明し、周囲に対して確認することではないのだろうか、と。

つまり、「(未来には期待できないけれど)とりあえず自分の今は素晴らしい」という「現状肯定」の意識です。

そして、その「現状肯定」を、ブログ等の手段を通じて周囲に対して確認する姿は、現代人の「かつてないほど恵まれたコミニュケーション手段を持っているが(持っている故に)、内面に癒し難い孤独を抱え、将来に対する漠然とした不安はあるが、とりあえず現状に大きな不満はない」という特質そのもの。

将来のことは全くわからないけれど、「今」につながっている「明日」ならリアルに想像できる。だから、若い人達は「今」に感謝し、近い「明日」を力強く生きようとしているのではないかと。

難儀な時代ですね。  
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2005年08月16日

地震が補強する未来

特に書くことないからって、放っておいたらトップページから記事が全部消えてしまった。なんか書きます。


今日も宮城県を中心に強い地震があったのだけど、この地震の存在、特に最近の「強い地震に対する恐れ」というのは、現代人の近視眼的な考え方を、補強・加速させているでしょう。

つまり、90年代後半から繰り返し言われている言葉「現代は、社会全体が明確に目指すべき場所(イデオロギーとか)を失ってしまったので、その日その日を享楽的に生きるしかない。」というやつです。予測不可能でカタストロフを招く、大地震が来るかもってのは、日々を一生懸命生きる人でさえもげんなりさせます。

こういう「将来に対する救いのなさ」が、もう古いけど援交少女とか、オタクとか、最近だとニートとかに共通している、「努力して手に入る、輝かしい将来なんか何も保証されてないでしょ」というの価値観で、実際にその考え方に有効な反論ができるかというと、何にもできない。「リストラされた親父」「911テロ」とかを参照するまでもなく、その価値観こそが、今の時代の気分だからだ。

この価値観を端的に表していた、日本社会の「ノストラダムスの大予言」という強烈な終末論を1999年に失ってからは、「大地震が来る」というのがその代わりを果たしているかのように思える。
そもそも、「大予言」が日本に現れたのは、オイルショックを食らって高度経済成長時代(「経済成長」が一種のイデオロギーとして機能していた)が終わりかけていた1975年なわけで、今に続く日本の未来に対する陰鬱な気分を、「大予言」が極端な方法で表していたのではないかと思う。

しかし、それが結局嘘だとわかった後で(当たり前だ)、それに代わって「大地震が来る」というのが現れたのではないかと。テレビ番組だって、「大予言」を特集する番組と、「大地震」を特集する番組は構成がほぼ一緒なのだ。太い声で過剰に危険を煽るナレーション、大げさな効果音、一見ドキュメンタリー風なつくり。科学的な精度で言ったら「大予言」と「大地震」は比較にならないはずなのに。

80年代から、ますます混迷を深める日本社会の状況を反比例して、「大地震」は「大予言」よりも、ずっと現実味がある(ように見える)けれども、そんな風に考えると、今は「大地震がきそうだ」という「科学的なデータ」ばかりが報道されているだけで、実は「大地震はこない」というデータも、調べると以外に一杯出てくるかもしれない。
メディアの大原則は、「大衆が求めるものを報道する」なのだし。

  
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2005年07月22日

最近の自分の周りの状況を見直して。

・「王者のように計画し、奴隷のように実行する」
最近改めて見直した言葉で、自分の行動規範の一つは言葉にするとやっぱりこれ。
少し毒舌を吐くと、「王者のように計画し」の部分だけやることが、「人の上に立つこと」だと勘違いしている輩を散見する。
そういう人間はまさに「裸の王様」であって、
自分があまりに滑稽な姿・振る舞いをしていてるために、上辺のお世辞とは裏腹に実は周囲から「王者」として全く認められておらず、実行はおろか「計画」すら実はろくにできていないことに気づいていない。

・「政治力も実力」
若い人間ほど、モノを生み出せる「実力」だけで理想を駆け上がっていくことを夢想し、泥臭く、一見、無産で張り子の力に見える「政治力」を軽視・嫌悪しがち。
というか自分も一年ぐらい前まではそんな感じだった。
しかし、どんなモノ・理想でも、多くの「人とのつながり」を経ずに実現されることは絶対にありえない。
また、実現しようとするものが大きければ大きいほど、それだけ多くの人の手を経る必要がある。
だからこそ、人間関係に直接行使する力である「政治力」は、「実力」と同じくらい重要である。
「政治力の侮蔑」をドライブに例えると、目的地に早く着くために「車の性能」ばかりを気にして、実際の「道路」の状況を軽視しているようなものだ。
ランボルギーニで細くてわかりづらい道を走るより、軽自動車で空いた三車線の高速道路を走ったほうが、目的地への到着は明らかに早い。

真に侮蔑するべきなのは、いつでも空いている高速道路を走れる「政治力」を持っているからといって、ぼろぼろでろくにスピードの出なくなった軽自動車に乗っていることに何の問題意識も持たないことで、「道路の走りやすさ=自分の実力」と勘違いしてしまうことである。
そりゃ前は空いているように見えるだろうが、後ろはとっくに渋滞しているし、何より自分の車がショボいことに気づくべきなのだ。

いつでも必要なのは、自分の車体をメンテナンス・カスタマイズ・そして必要とあれば車体自身を買い換える力を持つように心がけることで、それに加えて、道路状況を正しく読んで選択する力を持つこと、色々な道路について詳しくなることが、物事を実行する際に必須な両輪である。
  
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2005年06月30日

新iPodがポッドキャスティングをサポートしている。

正確には「iTunesがポッドキャスティングをサポートしている。」だろうけど。

日本では「ポッドキャスティング」なんて、ホリエモンがニッポン放送を買収しようとしてた時にちょっと触れてたぐらいで、ほとんど盛り上がってないように思える。今後も、日本でポッドキャスティングがブログ並に流行るような気はしません。根拠はないけど。

ただ、アメリカではボイスメールが盛んなのに、日本では全く盛り上がっていないとか、ヤフーでもMSNでもメッセンジャーには「ボイス機能」が標準でついているのに、僕の周囲では、そんな機能は完全に無視してキーボードをカシャカシャ叩いている人しかいないっていう状況はあります。

まあ、僕自身メッセンジャーは用事がある時しか使わないから知らないだけで、もしかしたらメッセなりSkypeなりで、PCの前で日夜喋りまくってる人がいるのかもしれないけども。

ただ、日本は古来より「文字の文化」だそうで、確かに源氏物語なんかでも、男女が歌を送りあって、直接会いもせずに恋心を募らせたりしてきたわけです。あと、欧米の携帯電話は、日本と違ってメール機能があんまり充実してないらしいとか、お国柄の違いはやっぱりありますね。

iPodはアメリカで開発されてるから、こういう風に、特に日本では期待されてないように思える新機能が乗ったりするんだろうけども、しかし、これとは別に最近考えてたことがあって、これがひょっとしたらポッドキャスティングの流れに乗るんじゃないかと思うんですよ。

最近、テレビ番組のネット配信については、やいのやいの盛り上がってて、USENが「Gyao」始めてたりだとか面白そうだけど、一方のラジオ番組の方はどうなってるんでしょうかね?

「ネットラジオなら腐るほどあるよ」という話ではなくて、例えば日本の「オールナイトニッポン」とか、ラジオ番組って一回流したらそれで終わりですよね?テレビ番組をビデオ・DVD化するように、ラジオ番組をパッケージ化して販売しようにも、一回放送で二時間もあったりするからCDに入りきらなかったんだろうし。

でも、もうMP3の時代ですよ。ブロードバンドの時代ですよ。DRMだって整備されてきた時代ですよ。

今までは「放送したらそれで終わり」だった既存のラジオ番組を、商品として流通させられる環境が整ってきたんじゃないですか?色々面倒くさそうな音楽部分は、カットしたって充分価値は損なわれないだろうし、テレビよりも権利関係複雑じゃなさそうですけど?

「ビートたけしのオールナイトニッポン」が、安い値段でダウンロードできるなら俺なら買いますよー。

まあ、何の下調べもしないで書いてるから、もうどっかで始まってるのかもしれないけど、「知財ビジネス」ブームのなか、ラジオだけ何にも話が聞こえてこないな〜、と思います。

そこまでポッドキャスティングの技術を理解してないので、もしかしたら大勘違いをやらかしてる可能性も大きいけど、日本でポッドキャスティングを普及させようと思ったら「キー局ラジオ番組の販売」しかないのではないかと。  
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2005年06月20日

どうでもよい雑談

先日「トリビアの泉」で、「女性の顔に鼻くそがついていた時、恋人の男性はどう対応するのか?」を実験しているの見ていた時のこと。

「女性たちが選んだ最も優秀な対応の仕方」は早くも忘れてしまったけど(なんか、スマートに相手に優しく気を使った対応だった気がする)、そんなことが話のメインではなく、実験の舞台になっていたレストランを見ていて。

店内は、白熱球かなんかで薄暗くオレンジ色に演出され、巨大なワインセラーみたいなものが壁に埋め込んであったりするような、大変に大人な感じのフランス料理?かなんかのレストランで、皆ナイフとフォークで食事をしていました。

そのレストランに食事に来た人たちが、「トリビア」の実験台になってたんだけども、驚いたのが、そこで食事をしてる人達に「20歳」とか「23歳」とか、自分と歳があまり変わらない人達が少なからず混ざっていたことです。

テレビをぼんやり見ながら、「もっと歳を喰ったら、こういうレストランに行ったりすることもあるのかなあ」とさらに薄ぼんやり考えていたら、自分はどうやらとっくにそういう年齢になっていたようです。

要するに、僕には「大人な感じのレストランで、恋人と二人でナイフとフォークを使って食事を(して、相手を傷つけないような優しい気の使い方を)する。」という経験がないわけなんですが、世の男性たちは、けっこう普通にそういうことをしてることにと気づいたわけです。いつの間にか、自分はすっかり取り残されていました。

普段は、男は男だけでいる時はバカな話をして盛り上がっているけども、それ以外の時は、僕の場合は自分の部屋でぼんやりしているか、せいぜい音楽とか漫画で暇をつぶしていただけだ。でも、他の奴らは、ひとたび恋人といる時は、こんな風に良い感じのレストランで美味しいご飯を食べたりして「キメる」時もあったのだな。みんな僕と同じだと思っていたのに。

そんな微妙な仲間はずれ気分を味わってしまいました。


また、その一方で、だからといって、僕がそういう「ちょっといい感じのレストランに行って、美味しい料理を食べる」ことがしたいかと考えると、やっぱりそんなことには全く興味がない。

そして、今度は女の人側に話を移せば、「女性にもほんとに色々なタイプがいる」ということを充分理解した上で、女の人は総じて「ロマンチックなこと」と「食べること」が好きです。「良い感じのレストランで食事」は、その二つどちらにも当てはまる行為です。あまりそれを嫌う女の人はいないでしょう。

しかし、僕はそういったことに興味がない。こういった種類のずれ・摩擦が、今まで僕が気づかないうちに色々な場所、場面で何度も起きていた、あるいはこれから起きていくことを考えると…

もう「女にモテたい」と思い詰めるような歳でもなくなったから別にいいのだけど、僕はこれからも「女性にモテる」ことはないんだろうなあ、と深刻に気づいたわけです。

みんなきちんと大人になってたんですね。  
Posted by tobira0513 at 09:24Comments(2)TrackBack(0)